もがみたかふみ

 竜を創造するのはまさに人類の夢であった。とはいえ、誰1人それに成功した者はいなかった。魔術と錬金術の使徒たちは、永い年月のうちにあらゆる地のもの、水のもの、空のものを作り上げていたが、竜と(奇妙なことに)かたつむりとだけは創造できなかった。この2つを創造できたものがいたとしたら、かの偉大なるパラケルススにも並ぶ名誉を与えられるであろう、というのが術士たちの一致した見解であった。

フランペルという術士がいる。この男は術士の世界では最も知られた男であり、当代きっての才能の持ち主であって、竜もしくはかたつむりを創造できる者があるとすればこの男をおいてないと考えられていた。世間の術士に、誰が最初に竜もしくはかたつむりを創造すると思うか、と尋ねれば、8割方はフランペルの名を挙げた。残りの2割は妬み半分にフランペルをこき下ろし、自分こそが創造するのだと言い張った。

誰が何と言おうと、フランペルの技は見事なものだ。彼の創造した生き物たちはみな美しく均整がとれており、生き生きとして健康だった。均整と健康こそは術士たちが他人の作品の評価をする主な基準であったが、彼の仕事はその2点において他の追随を許さなかった。彼の居城は人里離れたある緑の麗しい高台にあって、彼が創造した生き物は自由に放されていた。彼が創造した生き物はことごとく彼を自分の創造者であると知っていたので、虎や獅子のような猛獣ですらも、彼を敬って居城のまわりに住むことが多かった。

彼は今しもハチドリの創造を終え、その忙しい生き物を窓から放した所である。彼は一仕事追えた満足から一息ついて、お茶を入れるために実験室に降りていった。

実験室で彼はポットに紅茶の素となる赤銅の粉をひとつまみ入れた。彼が陶器のかけらを握って手を一振りすると、たちまちポットに湯が湧き出し赤く染まって紅茶となった。このまじないの問題はどうしても薄い紅茶しか出ないこと、なぜだか菓子がほしくなる副作用の2点であったが、ともかく彼はその紅茶をカップに移し、それをソーサーに乗せて、隅の長椅子にどっかと腰を下ろした。それから少し腰を浮かせて、お尻の下にあった覚え書きの帳面だの魔術書だのを片手でどかし、ふたたびどっかと腰を下ろした。

さて、と彼は考えた。これで全部だ。ほとんどあらゆるものを創造し終えた。関心のあるものはもう残されていない。ただ2つだけ、竜もしくはかたつむりだ。彼はついにこの前人未踏の仕事に取り掛かることを決意した。フランペルは十分に自信家であって、他の大勢の術士同様、「フランペルが竜もしくはかたつむりを創造する」ということを信じて疑わなかった。問題は、どちらから着手するかということだ。

竜、竜、竜、と彼は考えた。フランペルの名声を高めるのに、竜ほどふさわしい生き物もいない。かたつむりなど後でよい。どうせ、誰かに先を越される心配はほとんど無かった。彼が竜を選んだとしても、かたつむりの栄誉も彼を待っていてくれると思われた。だとすれば、強いてかたつむりを先にしなければならないということもない。

彼はお茶を終えると、書斎にこもって文献を探し始めた。それらは秘文字や暗号によって書かれており、術士だけが知る符号や、口伝の変換式を用いて読むものなのだ。莫大な数の魔術書が竜について書いていたが、そのすべては失敗談にすぎなかった。成功する予定だと書かれたものについては、その続報はなかった。成功したと書かれた文献はごくわずかあったが、ことごとく後世の研究家がその嘘を見破っていた。

何週間ももそうやって文献をひもとく日々が続いた。多くの実験例は、トカゲの処方に手を加えたものだった。フランペルの意見ではそれはまったく愚かなことで、外形上の類似から処方を得ようとしてもうまくいくはずはなかった。塩を作り出す過程から砂糖を得ようとするようなもので、そこに大きな本質の違いがあることに気づかなければならないのだ。

莫大な書物を読み解いたにもかかわらず、役に立つ記述はほんのわずかしかなかった。大魔術師パラケルススは竜の創造には手を染めなかったのだが、それでも参考になる記述を残していた。「竜の本質は神に背く荒々しき魂である」とその書物は告げていた。また、若くして死んだ貴族のスタイン卿は、青いバラこそが竜の心臓にはふさわしいとするもっともな主張を行っていた。フランペルはこれらのことを心に留めておいた。

こうしたさまざまな文献を比較研究した結果、フランペルは聖書を焼いた灰を肥料に青いバラを数本育て、それを心臓とすることに決めた。フランペルは常に心臓の処方に細心の注意を払っていたのだ。これこそが多くの生物の本質を現す部位であり、フランペルは、これが魂の問題とも関わりがあると見抜いていた。

彼はその他の些末なさまざまの材料を集めにかかったが、必ずしもこれらの材料が集めやすいということではなかった。時には彼は材料を集めるために、半月も帰らないことさえあったのだ。その間、留守を守り、さまざまな作業を進めるのは、一人の人造人間、ホムンクルスの少女に任せられていた。

術士というものは概して孤独なものだが、偉大な術ともなると、作業も複雑を極め、どうしても誰かの助けが必要になってくる。それゆえ、凡庸な術士は人間の助手を雇う。研究成果を盗んだりしないような、正直すぎて頭の回転の鈍い男が最も適しているとされていたが、かといってあまりに愚かすぎては実験の邪魔にならないとも限らない。小賢しくなく愚か過ぎもしない助手を選び、それをいかにしてうまく働かせるかという問題は、人嫌いや偏屈が多い術士の世界では永遠の課題であって、驚くべき量の書物がその方法を論じていた。とはいえ、卓越した術者ともなればこの問題にたやすく終止符を打つことができる。ホムンクルスがその答えであった。

ホムンクルスというのは、かの偉大なるパラケルススが作り出した人造人間である。その時代にはただ作り出すというだけでも困難と考えられていたが、研究が進み、処方は何度も改良されて今では術士の腕前さえよければ問題無く作り出すことができるようになっていた。彼らは主人に忠実であり、賢く、黙々と仕事をこなす。一説には魂を持たないとされており、そのせいか、声を発することができない。もっともこれには異を唱える者もいて、魂があるとの主張も、ホムンクルスが声を発したとする主張もあった。魂の存在はともかく、ホムンクルスは助手として重宝される存在であり、ホムンクルスを有するか否かで術士の腕前は簡単に知れた。

無論、フランペルはすでにホムンクルスを1人創造していた。それは14、5の少女の姿をしており、フランペルの創造物に共通の特質、均整と健康とを備えていた。フランペルを妬む口さがない連中の中には、この少女とフランペルの関係を悪くする者もあったが、それはまったく見当違いであった。フランペルが少女としてホムンクルスを創造したのは、単に彼の神経質な性格によるものだった。つまり、彼は自分の目の高さより高いものがうろちょろすることに我慢ならなかったのである。そこで彼は自分の目の高さからホムンクルスの身長をまず決め、次に年齢と性別を決めた。助手を務めるためにどうしても必要な年齢とその身長とをつりあわせた時、少女以外では均整を保つことができないと分かると、彼はあっさりと、少女を創造することに決めた。

フランペルは、甲虫を飼う少年のような手際の良さで少女を育てた。気持ちのいい部屋を1つ割り当て、よい食事を与え、適度に仕事をさせた。少女はホムンクルスの常として一言も話すことはなかったが、賢く善良であったので、自分の主人の偉大さを正しく理解していた。彼女は主人のために、しばしば近隣の村へ買い出しに出かけたが、そこでも賢く、善良に振る舞ったので村人にも好かれていた。

ある日、彼女が村から戻ると、フランペルの姿はなかった。彼女の姿を認めた魔法の扉が彼女のために道を開けると、彼女を待ち構えていた魔法の紙切れがひらひらと飛んできて彼女の手のひらに落ちた。それには、銀糸蝶の燐粉が手に入るあてがついたので、ひと月ほど出かけるというフランペルの伝言が書かれていた。彼女はそれをくずかごにきちんと捨てると、仕事に取り掛かった。実を言えば、主人の目を盗んで仕事を怠けるホムンクルスというのはいたが、彼女に限っては怠けるということはなかったのだ。まったくもって、フランペルの腕前は完璧と言ってよかった。

彼女は主人がいないからといってさぼることはなかったが、主人がいないと分かると仕事の順番を変更した。食事の支度をとりあえず後に回し、掃除を始めたのだ。なにしろ彼女の主人は神経質で、自分の周りで掃除をされるのが大嫌いだった。そこで彼女はいつも、主人がいない間にできるだけ掃除をすませておくことに決めていたのだ。彼女は十分な食事を与えられていたが、現実問題としては、あまり食事をとらなくても空腹を感じることはほとんどなかった。主人が不在の今、必要なら丸一日くらい食事の準備をしなくてもさしつかえなかったのである。

たった二人で住まうにしては、フランペルの居城はひどく広くて大きかった。たとえ彼女が毎日掃除したとしても、最後の部屋まで行き着く間に、最初掃除した部屋にほこりが積もる、ということになっていただろう。まして彼女は作業の多忙と主人の神経質とから数ヶ月に一度しか掃除をしなかったから、部屋によっては手のつけようのない場所もあった。彼女はいつものように、普段使う部屋から片づけることに決め、モップや箒、雑巾のたぐいを万端整えると掃除を始めた。

常日頃、フランペルは自分の寝室から掃除を始めるように言いつけていた。掃除を嫌うフランペルだったが、寝室があまり汚いとそれも神経に障ると見え、寝室にだけは定期的に彼女の手を入れさせていたのだ。彼女は念のためにノックをしてから部屋に入り、散らかった床を片づけ、魔法をかけられた箒やモップが仕事をこなしている間にベッドを整えた。主人の寝間着からこぼれ落ちたものと見える銀貨がシーツの間にまぎれていたので、それはベッドわきにある小テーブルの上に見えるように置いた。

魔法の箒とモップを従えた彼女は、次に研究室に入った。ここはほとんど掃除の不可能な部屋であった。というのも、フランペルの実験器具が、テーブル、床から棚、壁にいたるまで際限無く並べられており、またそれらに少しでも手を触れるとフランペルの怒りに触れる可能性があったからである。魔法の箒やモップもそのあたりのことをよく心得ており、この部屋では小さく縮こまって動こうとしなかった。彼女は注意深く足を踏みいれると、明らかにゴミと分かる砕けたガラス器を拾い上げた。それ以外にもゴミとおぼしきものはあったが、彼女にはそれらが本当にゴミなのかどうか確証が持てなかったので、それらには手をつけなかった。

彼女は少しずつ部屋をまわって掃除を続けた。普段使っていない部屋はことごとく無視して、使う部屋は気持ち良く、使いやすくすることに手を尽くした。そうして彼女は最後に、竜を創造している実験室にやってきた。

普段フランペルが使っている実験室は小さな部屋だったが、フランペルは竜が入るだけの広さを確保するために、かつての大広間を改築してその用途にあてた。この城を建てた先人たちが宴を開くのに用いたこの部屋は、今では中央に巨大なガラスの部屋がしつらえられ、いくつもの機具や管がそこから伸び、竜を育む胎と化していた。床にいくつもひかれた魔法円は、心なしか脈打っているように見えた。

竜は中央のガラスの部屋の中で丸まっていた。実を言えばこの竜が生の兆候を見せるようになってから、すでに半月以上が経過していたのだ。竜は正常に呼吸しており、心臓も力強く脈を打っていた。だが奇妙なことに、竜が目を開く様子はなかったし、その理由はフランペルにも分からなかった。彼が見つけようとしている銀糸蝶の燐粉は、その問題を解決してくれるものかもしれなかった。

この部屋はそれまで掃除の必要がなかったのだが、実験室になってからはやはり掃除の対象となった。さして汚れる部屋ではないのだが、この部屋の広さはそれだけで十分に手間がかかる部屋だった。彼女はいつものように部屋の隅から掃除を始め、少しずつ部屋はきれいになっていった。

少女の仕事は着実だった。床に散らばった屑を少しずつ拾い上げ、麻布の袋に移すのだ。疲れた時にはその場でしばらく休憩した。空腹を感じることはあまりなかった。手に持った麻袋がいっぱいになり、彼女が新しい袋を取りにガラスの部屋の正面を横切った時のことだった。

竜はその目を開いて、彼女の視線を捕らえた。

それはヘビの目をしていた。そして、その瞳は紅く、人間には理解できない無表情をたたえていた。
竜はめんどくさそうに彼女をねめつけると、ふと、思い付いたように口を開いた。人と異なる口の形のために発音には癖があったが、それはまぎれもなく人の言葉を発した。

「ほう、お前は俺と同じ、人の手になるものなのだな」

彼女はやや当惑の面持ちであった。よりにもよって、主人が出発した当日に竜が目を覚ましたということも予想外であったし、またそれが人の言葉を解し、話すというのも困惑の素であった。主人はあとひと月は戻らないし、彼女は話すことができなかったからである。彼女の当惑を見てとった竜は続けて言った。

「何も困ることはない。お前は言葉を話さないようだが、俺は心を読むことができる。お前はただ心に思うだけでよいのだ」

彼女は素直に試してみた。竜は彼女の瞳をじっと見つめた。

「ああ、そうか。主人は出かけていて不在なのだな。では俺の食事の用意はお前の役目ということか。俺はたいそう腹が減っているのだがな」

彼女は主人が竜の餌にと貯えている肉の山のことを思い出した。そこで彼女は掃除をやめて食糧の貯蔵庫に足を運んだ。

竜はその巨大な空腹を満たすために相応の量を要求した。この生まれたばかりのはずの竜は、まるで半月ほども何も食べていないかのような食欲を見せ、彼女が手押し車で3往復した肉の固まりをペロリと平らげた。

「いやはやまったく!」

肉をつかみ、その牙で裂きながら、竜は少女の前でひとりごちた。

「この爪のない手はなんとかならんものか。爪のない竜など、竜とは言えんではないか。竜が火を吹かなければ、あの男は失敗したと考えるだろうに。爪がなくても成功というのなら、相当の愚か者と言わねばなるまいよ」

竜は芝居がかったしぐさでそれだけを言いおわると、少女に一瞥をくれた。

「そうだ、お前がいる。お前なら俺に爪を与えることができる。いや、どのように爪を創造すべきかは、この俺が教えてやろう。お前はその通りに作業するだけだ。どうだ。主人への恩返しに、爪を創造してみようとは思わないのか」

少女は躊躇した。竜は重ねて言った。

「このまま半月もたてば、俺に爪をつけるには間に合わなくなってしまう。俺が育ちすぎてしまうためだ。そうなってしまえば、お前の主人は笑いものだぞ。それに、そうだ、お前にも礼をやろう」

彼女は怪訝な顔をし、かぶりを振った。

「なるほど、お前が主人の待遇に満足しているのは分かっている。だがお前の主人にも与えられないものがある。それをお前に与えようというのだ。まだ分からないか? お前の主人がお前に与えたくても与えられないもの、魂をくれてやろうというのだ」

彼女は関心を示した。というのも、かねがねフランペルは魂の問題に興味を示しており、彼女の魂についてもさまざまな考察を重ねていたからである。

「そうとも、お前の主人もたいそう喜ぶことだろう。魂を持たない今のお前と、魂を持つようになったお前とを比べれば、魂の持つ秘密に迫ることができるのだからな」

こうして、彼女は竜の爪の創造に手を染めることとなった。彼女は利口であったし、主人の仕事を真面目によく手伝っていたので、作業についてもいくらか覚えていた。竜はさまざまな材料を要求し、その加工の仕方を教えた。

まず竜が要求したのは、とがったものであった。

「本質をとらえることだ」と竜は言った。「その意味でお前の主人は正しい。この鼻の先からしっぽの先に至るまで、本質が正しく均整を保っている。そして同様に、この爪についてもその本質をもとにすることだ」

考えた末、彼女は砕けたガラスの器を皿に乗せて持って来た。竜はそのうちの特に大きく、鋭い破片を選び出させ、それを核とすることにした。

それから、少女は言われる通りにさまざまな加工を加えた。その破片を磨き、月の光にあて、水で洗い、粉末を丹念に混ぜ、といった工程をひとつひとつこなしていった。最後に、魔法円を描き、その中央に錬金術で使われる魔法の鍋をすえ、ガラスを入れてふたをした。

「なぜ生まれたばかりの俺がこのような魔術を知っているのか、不思議か? それは簡単なこと、真の竜は、その本質から魔術に染まった生き物なのだ。竜はその生そのものが魔術によっている。魔法なくして、我ら竜は生きることができぬ。それゆえ、我らは生まれた時から魔術について知っているのだ。人の赤子が、息をするすべを知らぬことがあろうか? 同じことだ、娘よ」

竜は満足げにそう言った。それから娘を見て

「3日の間はその壷に触れぬようにすることだ。その間にすることがないのなら、お前の魂を創造することにしよう」
と言った。そして彼女に一つの問題を課した。

「本質を考えなければならぬ」

竜は鼻から勢いよく煙を吹きながら、教師のように偉そうに続けた。

「お前の魂なのだから、お前が選ぶといい。お前の魂の本質としてふさわしいものを、何か一つ持って来い。それをもとに魂を作ってやろう。」

少女は思案した。それから城外に出ていって、さまざまなものを見た。森で見かけたくるみは、殻があまりに頑ななように思われた。水辺の花はその筋ばった茎が気に入らなかった。月には手が届かなかった

彼女はまる一昼夜の間にさまざまなものを見て、考え、結局、朝露のついた小さな白い花を持ち帰った。竜はそれを見てフンと鼻を鳴らした。そして、いくつかの薬草と、薬品とを混ぜた上で大きな壷に入れ、煮続けるようにと命じた。

それからしばらくというもの、彼女は忙しく働いた。竜の食事の世話をせねばならなかったし、竜の爪が入った壷には、いくつかのまじないを施してやらねばならなかった。自分の魂を煮る壷は頻繁ににかきまぜ、たくさんの薬品を加えたり、逆にいくつかの不純物を除いたりしなければならなかった。

「精製の過程では不純物が出るのは当然だ」

と、竜はさも当然そうに言った。

「相反する要素が精製の過程の後に残っていたら、それは不完全な魂になる。人間どもを見るがいい。奴等は生まれながらに不完全な魂の持ち主なのだ。奴等の始祖は不完全な魂を授かった猿だった。その猿は自然のままに生きることをよしとせず、己の本性に逆らい、不安定で、そのうちに徒党を組み、同胞の猿たちから離れて今のようになった。あのような不完全な魂には価値がない。まっとうな魂を得るには、不純物を除く作業は欠かせないものだ」

彼女は従順に、竜が言いつける作業をこなしていった。

2週間が過ぎ、ついに竜の爪と、彼女の魂が完成した。彼女はその2つを揃いの壷に入れ、竜の部屋へと持ってきた。

「ああ、できたか。まずは爪をくれ。その壷をくれれば、俺が自分でつけることができる。このような爪のない手はもうたくさんだ」

竜が入っている巨大なガラスの水槽には扉はなかった。その代わり、水槽のてっぺんにに続く階段があって、そこから食事を竜に与えるようになっていた。彼女はいつものように階段のてっぺんまで登ると、壷ごと、竜に渡した。

竜は爪を取り出した。それは全部で8本あり、銀灰色で、研ぎ澄まされたかのように鋭かった。竜はそれらをつかむと、まじないを唱えて自分の指に押し付けていった。爪は小さなうめきをあげながら竜の指に吸い付き、しっかりと根づいて落ち着いた。

「素晴らしい出来栄えだ」

竜は何度も自分の爪を確かめ、満足しきって言った。

「さ、約束通り、礼をしてやろう」

彼女は階段を降り、残ったもう一方の壷を取り上げた。その中に入っているのは小さな薬が1粒だけだった。

「それを飲むがいい。それはお前の心臓に達して、全身に行き渡る。そうすれば、お前の体が魂に満ち溢れることだろう。お前も魂というものを理解するはずだ」

彼女は素直にそれを飲んだ。そして自分の手足を見た。しばらくの間は何も変化がないように思われたが、しかし突然、視界が開けたように見るものが姿を変えた。彼女は思いのままになる肉体を実感し、自分の均整のとれた手足に喜びを感じた。かすかな空腹を覚え、それもまた快く思った。彼女は真に魂を得たことを理解して、躍り上がらんばかりだった。それから彼女は我にかえって、水槽に目をやった。そうして、彼女は、そこに今まで見なかったものを見た。

そこには竜がいた。黒く凶々しい鱗。巨躯に連なりゆっくりとのたうつしっぽ。赤く光る爬虫類の目。魂を得た今となって、そこにたたえられた光を彼女は理解した。見るものすべてを威圧せずにはおかぬ、強烈な悪意。そして銀灰色に光る鋭い爪は、産みの親たる彼女をにらみつけているかのようだった。

「そうだ。お前は愚かにも、魂というものが何をもたらすのか理解していなかった。それは喜びと希望とをもたらす。同時に苦痛と恐怖をももたらすのだ」

竜は彼女に顔を近づけた。間にガラスを隔てているにも関わらず、彼女は一歩後ずさった。

「お前が理解していなかったものは3つある」
と竜は続けた。

「ひとつは、今も言った、お前の魂のこと。もうひとつは、今お前が目前にしている、竜という生き物の本質だ」
竜は鼻を鳴らした。それは彼女が何度も目にした仕種であったが、魂を得た彼女は、それに愚かな人間どもへの侮蔑が込められていたことを知った。

「竜の本質とは『神に逆らう荒々しき魂』。あらゆる生への憎悪を備え、あらゆる生にとって脅威をなす。それが竜という生き物の本質なのだ。そして、お前の主人は正しく竜を理解していた。そのとおりに創造したのが、この俺だ」

少女を見据えたまま、竜は目を細めた。それは残忍な笑みだった。

「お前が理解していなかった最後のひとつが何か分かるか? それは、俺の爪が持つ意味だ。竜という危険な生き物を創造するにあたって、お前の主人は用心深く、この水槽にまじないを施した。俺がどのような力を振り絞ろうとも、この水槽から出ることはできぬ。爪が無いままであったなら、な。竜の爪はいかなるまじないをもたやすく引き裂く。お前の主人はそれを知っていたからこそ、俺に爪を与えなかったのだ。だが、お前がそれを与えてくれた。その力は、この通りだ」

竜は突如としてその巨大な腕を伸ばし、水槽の壁をたやすく砕いて、少女につかみかかった。少女は、恐怖の叫び声をあげた。彼女は、生まれて初めて自分の声を耳にしたのだった。


フランペルが戻った時、城は破壊されていた。すでに竜の姿は無かった。少女はまだ息があったが、大きな怪我を負って衰弱しきっていた。フランペルは彼女の手当てをし、近くの村の老夫婦に預けた。その夫婦には子供がいなかったからだ。

次第に彼女は元気を取り戻し、笑顔を見せるようになり、ベッドから起きることもできるようになった。しかし、あまりの恐怖を体験したせいか、言葉を話すことができず、時折、悪夢にうなされた。老夫婦はフランペルから少女の名前を聞かなかったので、思案した末、彼女に「朝露」という意味の名前をつけた。少女がその名前を気に入ったので、老夫婦はほっとした。

少女を預けて立ち去ってからというもの、フランペルの姿を見たものはいない。竜を追って旅立ったのだとされるが、その真意がどこにあったのかは分からない。

以後、術士の世界では、後回しにされることを「フランペルのかたつむり」と呼んで嫌うという。

Fin